われと神は一つである。故にわれは神である。

真我が現れ出る方法は只一つあるだけで、それは考え、想念、言葉、行為ということです。真我即ち神なる実相―それは力、本質、智恵である―は意識だけによって形が与えられる。この故に大師キリストは、「汝の信ずるが如く汝になれ」と言い給い、又「信ずるものにはすべてのことが可能である」と言われたのです。

 

わたしたちは、集中によってすべての力と一つになるのです。これは人間が神より受け継いだ遺産であります。「われと神は一つである」。神の力と一つになるには、只一つの道があるだけです。それは神と意識的につながることです。神は人間に活用されるためにあるのであり、人間は常に神を活用するようになることを、何時かは悟るときが来るでしょう。その時、人間が神の力と一つであることを悟るでありましょう。又、その時初めて人間というものが本当によく理解されるでしょう。

 

何者かを恐れてでもいるのですか。もしそうなら心を上に向け、貴方を導き給う神に祈りなさい。神の不滅の愛はあなたを包むでしょう。恐れる必要はない。神は言い給うたではありませんか、

「彼等呼ばうに先立ちて我は答えん。彼等未だ語らざるに吾は聞かん」と。平伏嘆願するのではなく、必要な助けはすでに与えられていると知る理智的信念に満ちた祈りを以て、大胆にこの恩寵の王座に近づくのです。疑うなかれ。もっと積極的に出よ、即ち神に求めよ。キリストの如くに生ける神の子として出生した権利を要求せよ。わたしたちが「生き動き存在している」不可視の普遍質量の中には、およそ人の望み得るすべての善きもの、完全なるものがあり、信念によって引き出されて具体化されるのを待っていることを知って戴きたい。

 

いつも聞かれる祈りこそ真の祈りでなければなりません。従って又、科学的でなければならない。科学的である以上、一定の法則に従うものでなければなりません。

その法則とは、「汝の悟れる程度に、汝の祈りは叶えられたり」であり、「又、汝、何を望むとも、そを祈るに、既に受けたりと知れ、然らばそを得ん」である。もしわたしたちが何なりとも求めたものは、すでにわたしたちのものとなっていると積極的に知るならば、わたしたちは法則に従っていると知るがよい。もしも望みが満たされれば、法則が満たされたのであると知るがよい。もし満たされなければ、求めた側に誤りがあったと悟らなければならないのである。誤ちはわれわれにあるのであって、神にあるのではないと知るべきです。
従って結論は、「汝、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、主なる汝の神を愛すべし」となる。故に、心配、不安、不信を以てではなく、自分の必要なものはすでに自分のものとなっていると知り、歓び、晴れ晴れとした感謝の心を以て、己自らの魂深く沈潜することです。
 その秘訣は、神と一体となることにある。神との一体感になり、たとえ地球上の人々がこぞって反対しようとも、神との一体感をしっかり持ち続けて離さない。「吾、みづからの力にては何事をも為す能わず、吾が裡に住み給う父なる神ぞ御業を為し給う」とイエスは申されました。神を信じよ、信じて疑うべからず、信じて恐るるべからず、神の力に限りなきことを忘るるべからず。神は「すべてを為し能う」のです。

 


 

もし望みが叶えられない場合は、その咎は自分自らの内にあるのであって、神にはないことを知らなければなりません。そのような時は、もとに戻って求め直すのではなく、エリアのようにコップが満たされるまでコップを差し伸ばし続けるのです。たとえどのような誤った卑俗な考え方があなたの周囲に取り巻いていようとも、祝福と感謝とを注ぎなさい。迷わずに前進しなさい。望みはすでに今、此処にある。夢疑ってはならない。あなたの信念は報われます。そうして信念が智識となるのです。

 

自分の父母や兄弟友人に対すると同じように何時でも神を見、神と語ることができるのである。本当のところ神は誰よりも身近におられるのである。神はどんな友よりも遥かに慕わしく、また忠実である。神は決して興奮もせず、意気消沈することもない。神は決してその子等、生きものや被造物を一つとして破壊することなく、傷つけることなく、妨げることがない。もしそのようなことでもすれば、もはや彼は神ではない。その子等や生きものや被造物を裁き、破壊し、或いは美しいものを与えようともしない神なるものは、人間の無智な考え方が作り上げたものにすぎない。そのような神はあなた達自身で恐れたいと望むのでない限り、恐れる必要はないのである。真の神は御手を差し伸べてこう言われるからである。「わが持てるすべてのものは汝らのものである」。

 

内在のキリストを出すためには、「われはキリスト、神の一人子なり」と宣言しなければならないこと、然る後キリストの生活を生きてゆかねばならない、その時初めて内在のキリストが現れるのである。

 

人がただ神のみを知り、神のみを見つめて、不動の信念をもって毅然として立つ時初めて、神は彼の観ずるものを実現し給うのです。故に、「父なる神よ、貴神の他に何も知らず、おお父なる神よ、貴神を見詰めて、わたしは確固として立つ。わたしはありとしあらゆるものの中に、貴神の外には何も見ない。貴神の愛と、生命と、智慧の外は何も知らず、聖なる山の中にわたしはしっかりと立つ。貴神の聖霊は常にわたしに満ち溢れ、常にわたしを取り巻き、わたしの中にも外にも豊かに富む。それはわたしだけでもなく、貴神の子等すべてがそうであることを、父なる神よ、わたしは知る。わたしには神の子等に有るもののみが有り、万物にとっても神のほか何物もなきことを、父なる神よ、わたしは知る。吾れ、貴神に感謝す。

 

赦しを行うためには、言いかえれば、罪を赦す知識を修めるためには、人は本来すべての罪と不協和と不調和とを赦す権利がある。罪を赦すのは神ではない、何故ならば、神は人の罪、病、不調和とは何等の関係もないからであって、それは人間自らが惹き起こしたものであり、従って人間のみがこれを消し、或いは赦し得る唯一の者である。

 

すべて何かを克服した人は、不調和に対するに真理を以てする場合、常に罪を赦し続けることを主なる神と契約しているのであります。その故に、イエスは汝ら人の罪を赦せば、汝等の天なる父も又、汝等を赦さんと言われたのであります。

 


 

あなたたちが心の底から敬虔と深い意味をこめて、神がこの聖なる宮にましますと言明し、且つこの宮とは即ち今このままの、あるがままの自分の至純なる肉体であると知った瞬間、又、真のキリストであるあなたたちがまさしくこの宮の中で神と一体となって住んでいること、及びこの昇華した肉体こそは聖なる在所、全くして一切を包容する住居であることを知った瞬間、あなたたちは活力を与える者、この真実神聖なる原理が貫き流れる為の器、一切を包み一切に注ぐ器となる。その時、神なるあなたたちは、その神を、あなたたちの愛する神を、ますます多く注ぎ出すようになる。

 

人生の難所に逢着せる時

全力を尽したるに尚

周りにも後ろにも道なく

突き進む外に道なき時

魂を静めて神を知れ

さらば闇も嵐も去らん

神は風を鎮め、神は浪を鎮め給う

神は汝の魂に語り給う、「ひたに進め!ひたに進め!ひたに進め!ひたに進め」と。

 

あなたたちが「神」というとき、自分自身を神と見るがよい。自分が居るのは神が居ると見るのである。神が狂信者やホラ吹きや利己主義者である筈がない。故に神の肖像である神人、キリストもまたかかるものである筈がない。何はともあれ、あなたたちは神である。その故にまた神人である。「吾れは父にあり、父は吾れにあり」とは真実の言葉である。神我と吾が父なる神とは、穏和なることに於いても全能の偉大さに於いてもまた共に一体である。キリストの王冠をあなたたち自らの手を以て、自らの頭に戴け。それは自ら戴冠する以外には、何人も戴冠することは出来ないのである。神と一つになるのみならず、神そのものとなれ、実際に神と成れ、その時あなたたちは全世界に神の属性を現すことができるし、又事実、現すのである。神のエネルギーが人間を通ぜずに顕現することがどうしてできよう。人間と同じ振動数で振動しうる有機体は、全地上を通じて人間の外にないのである。

 

しばし雑念妄想を止め、神乃至第一原因がすべてであること、それは始めもなく終わりもなく、全宇宙にわたり、全宇宙の中にあって、あなた方を取り巻いていることを考えてごらんなさい。あなた方が素直にこのこと、そしてこのことだけ、即ち、一なる神、全能なる存在のみを礼拝するならば、あなた方は自分の体のヴァイブレーションが人間のそれから神、即ち原始ヴァイブレーションに変わることに気づくでしょう。あなた方がこのヴァイブレーションを思いその中で生き、動き、且つそれと一つになることが、それを礼拝することになるのです。そしてあなた方が崇拝し、生きる理想とするものに、あなた方は成るのです。すべての人類は、かくのごとくであり、すべての人類にとってかくあるのです。一つの神、一つのキリスト、一つの融合、一つの人類があるのみです。すべての兄弟姉妹より成る一つの総世帯があるのみです。すべては一つなのです。

 神を自分にとって生けるものとし活力あるものとするためには、自分自らが神であると思い且つ知らなければなりません。他の如何なるものよりもあなたにとって、それは生けるものであり、活力あるものです。これが人間の本質に関する聖なる科学です。その時あなた方、即ちキリスト、即ちあなた方自身の救世主は生けるものとなり、あなた方と一つとなる。あなた方はそのものである。このことがあなた方の全生涯の動力となる。あなた方は自分で自分自身、即ち真我を贖ったのであり、神、真の神と一つなのです。このことを拝し、愛し、尊ぶことによって、それはまこと内在して活動する神、即ちあなた方の理念となるのです。

 

「吾が内なるキリストにまさる偉大なる力はない。吾、今やキリストより与えられたる言葉を発する。それは一切のものを直ちに実現、成就するのである。吾がキリストより与えられたる言葉にまさる推進力はない。吾、わが言葉を讃美し、祝福し、豊富と調和と完全とをもって、この言葉を送る」。かくしてあなたたちは、自分の真の望みを表わす言葉(神)を第一に発したのであるから、二度と神に請願し直してはならない。ただ前進するのみである。自分のしたことを思い出すのである。あなた方はすでにキリストの言葉を出したのである。あなた方は支配権を握っているのである。それは実相の世界においてすでに実現して完全なのである。それは神の秩序の中にあるのである。

 

「生命と光り

  豊かに満ちて捉われなく

完全、無限の富と力、

  妨ぐるものなき自由を

われ、神よ、汝に、感謝し奉る」
 
常に、まず「完全」の習慣、「神」の習慣、「キリストなる神」という習慣を養うつもりで、自分の想念、心、体の一切の外に出る動きを完全に統制することである。何処にいようと、仕事中であろうと、休憩中であろうと、思い出すごとに、このことを実行せよ。この完全なるものが自分の中に存在するのを観ぜよ。この完全なる存在を自分の真我、神なるキリストの臨在と観ずる習慣を養え。更に、汝の存在のまさに中心より聖なる白光が、目も眩むばかりの純粋さと輝きとを以て発光すると観ぜよ。その大いなる輝きと栄光とが、全肉体のあらゆる細胞、繊維、組織、筋肉及び器官から発すると観ぜよ。かくて、真の神のキリストが勝利に満ち、純粋、完全、永遠なる相をもって顕現せりと観ぜよ。小我のキリストにあらず、汝自身の真の神のキリスト、汝の父なる神の一人子、常に勝利に満ち、一切を征服する神の真の一人子のことである。

 「神」という度毎に、自分が神を出していることを十分に分かって貰いたい。そうすれば、あなた達はわたしを神のキリストとして世に出すよりも大いなる奉仕を世にすることになろう。自分自身を神のキリストと見ること、自分自身を神として世に現すこと、神を自分自身と見ることが、遥かに偉大且つ尊いことなのである。

 あなたたちが、神を自分の内に住み、自分の内を貫流する最高の原理であると知った上で、神ということばを度々使えば使うほど、大いなる利益をそこから受けるであろう。

 神とは自分の中にあったのだと、今あなたたちは悟得しつつある。その内在の原理であることを知って、神の名を使用すれば使用する程、あなたたちの体のヴァイブレーションはそれだけ高くなる。