天の王国に入るために霊的な人になる

天の父の王国に入るためには、自分の意図の通りに全てのレベルで充実して生きなければならない。
あなたは人の肉や血のままで、この王国に入ることはできない。
あなたは全体として霊的な人にならなければならない。
霊的な人とは、人間性に何の問題もない、無害で謎めいた存在などではない。
どちらかと言えば、それは、我々が感情、感情の7つのシールの中毒を見守っている観察者である。
誰もがマスターベーションをして、それを偽ったり、セックスしている時に他の幻想を持っていたりするように、究極の裏切りは、親密な関係にある。
ある人があなたにすべてを与え、あなたがそれを得て、他のものと置き換える時だ。
その親密さは真実と信頼の中で与えられ、あなたはそれに感情的な執着を持たなければならないのだから、それは、あなたが答えるべきものをたくさん持っている時なのだ。
我々が第1シールの上を、偽善のエネルギーで隠してしまえば、我々はどうやって、天の王国に入るというのか?
乗るべき輝く船もないというのに。
詐欺や偽善以外に、我々は何を運ぶのだろうか?
何を持ち運んでいるのだろうか?
肉欲だ。
第1シールが悪いのではない。
そうではない。
問題なのは、軍隊を率いている精神の方であり、それこそが、審判へと進んでいく存在なのだ。
可哀相な肉体は、死んで虫達に食べられてしまう。
何というひどい仕打ちだろう。
軍隊が生き残らない限り、征服者が生き残って栄光を手にすることはない。
肉体も輝かしく生き残らない限り、男や女も生き残ることはない。
そして、この中に、我々は最も深遠で暗い神秘について、神聖で秘密の真実を持っている。
政府や宗教や世界を支配する人々は、この隠された恥について知っている。
そして、彼らは、あなた方に対してそれを使うことで支配している。
そして、それを使うことで、あなた方を大人しくさせている。
あなたは自分が彼らの一部になっているために、それに逆らって声を上げることができないほどの偽善者になってしまっている。
それが病気だということがわからないのか?
そして、確かに、罠にはまった人を自由にすることができる唯一の方法がある。
我々はその話題を口にすることができるし、確かに、この社会にとってごく普通のことである。
本当にそうだろうか?
では、あなたの妻にそのことを言ってみなさい。
あなたの夫にそのことを言ってみなさい。
あなたの恋人にそのことを言ってみなさい。
「実は、あなたとセックスしている時、私はあなたと寝ているのではなく、他の誰かや動物や子供と寝ている」と。
そう言ってみなさい。
そして、あなたは「私がそう言ったら、彼らは私を愛してくれなくなる」と言うだろう。
それは真実だ。彼らは愛してくれなくなるだろう。
あなたが正直にそれを言えば、彼らはドアから出て行ってしまうだろう。
彼らはあなたを拒絶するだろう。
では、あなたはどうなるのだろうか?
あなたはまだ満たされていないのに、彼らはドアから出て行く。
というのは、それが現実の基礎だからだ。
それが、信じられないほどの富が現れない理由だ。
なぜなら、あなたがとても欲深くて不正直だからだ。
それに、あなたは愛の中や真実や美の中で生きる方法さえ知らない。
そして、死というものよりも先に、我々が気づかなければならないのは、不死と真実を語ることである。
そして、あなたは内面を覗き込み、それを見つけなければならない。
あなたは、一緒にいる人を愛していると千回も言う。
イエシュア・ベン・ヨゼフはそれが嘘だと知っていた。
彼はそれを知っていた。
それが、彼が法を作り、人々に説いた理由である。
もし誰かと恋に落ちるつもりならば、内面の父と恋に落ちなさい。
なぜなら、我々はパートナーにとって、全く信用ならない相手だからだ。
それは、かつてそういう行為をしたからではなく、思考は現実の創造者なのだから、それを考えたことがある者は誰であれ、それをしたも同然だからだ。
そして、この聴衆の中の男や女は、品位と親密さのあるセックスを通して、最終的に相手の幻想が犬だったとか、鳥だったとか、少女や少年だったとか、他の男や女だったと気づきたくはないだろう。
あまりにも自由に与えたのに、結局、自分はその精神の代替物だったと気づきたくはないだろう。
そして、もし彼らがそうなら、あなたは自分が全く愛の状態にないことに気づくべきである。
そして、ドアから出て行く勇気を持つべきである。
なぜなら、他のどこかには、第1シールから第7シールまでの愛を与える人生があるからだ。
そうすれば、他の人に自分の人生を預けたりしない、本当に高貴で尊敬できる存在になり始める。
それは人生を敬い、維持し、養い、何よりも神を愛する者である。
そして、最終的には、同じ道を歩み、同じ知っている状態を持つ他の存在に出会うだろう。
そのような二人の人間が一緒になったときには、まるで出会いそれ自身が、本来そうなるべき、親密さや信頼や美徳になっているだろう。